大判例

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最高裁判所第一小法廷 平成2年(オ)508号 判決

上告人

佐々木秀明

右訴訟代理人弁護士

江藤鉄兵

片井輝夫

小見山繁

河合怜

小坂嘉幸

川村幸信

山野一郎

富田政義

伊達健太郎

竹之内明

加藤洪太郎

華学昭博

仲田哲

被上告人

小田原教会

右代表者代表役員

杉山雄伝

右訴訟代理人弁護士

宮川種一郎

松本保三

尾崎高司

西村文茂

主文

原判決を破棄し、第一審判決を取り消す。

上告人及び被上告人の本件各訴えをいずれも却下する。

訴訟の総費用は、上告人の訴えに関するものを上告人の、被上告人の訴えに関するものを被上告人の各負担とする。

理由

上告代理人江藤鉄兵、同弥吉弥、同片井輝夫、同小見山繁、同河合怜、同小坂嘉幸、同川村幸信、同山野一郎、同富田政義、同伊達健太郎、同竹之内明、同加藤洪太郎、同華学昭博、同仲田哲の上告理由第二点について

一  本件は、上告人が宗教法人である被上告人に対し、その代表役員及び責任役員の地位にあることの確認を求める訴えと、被上告人が上告人に対し、本件建物の所有権に基づき、その明渡しを求める訴えとが併合審理されているものである。そして、記録によれば、被上告人の主張は、被上告人の代表役員は責任役員を兼ね、その主管に任命された者をもって充てることとされているところ、上告人は、被上告人の包括宗教法人である日蓮正宗により、その宗規に定める懲戒事由である「正当の理由なくして宗務院の命令に従わない者」に当たるとして、被上告人の主管の地位を罷免する懲戒処分(以下「本件処分」という。)を受けたから、被上告人の主管ないしは代表役員等の地位を喪失し、本件建物の占有権原をも失った、というのに対し、上告人の主張は、本件処分は、上告人等が宗務院の第五回全国檀徒大会の中止命令(以下「本件命令」という。)に従わなかったことを原因とするものであるところ、上告人等が本件命令に従わなかったことには、右の宗規にいう「正当の理由」があるなどとして、本件処分の無効を理由に、上告人は、依然として被上告人の主管ないし代表役員等の地位にあるから、本件建物の占有権原をも有する、というのである。以上の双方の主張によれば、上告人及び被上告人の訴えは、いずれも本件処分の効力の有無によって請求の当否が決まる関係にあるところ、右の点の判断をするためには、上告人が本件命令に従わなかったことに正当の理由があるかどうかを確定しなければならないことは、多言を要しない。

二  原審は、本件処分の効力を審理、判断するに当たり、右の懲戒事由にいう「正当の理由」には、日蓮正宗の教義、信仰にかかわる事由は含まれず、また、信者の教化育成の在り方その他宗教上の事由をもって本件命令の効力を争うこともできないと判示し、その見地から、本件処分が日蓮正宗の懲戒処分に関する手続上の準則に従ってされたものであるか否かを検討し、その結果、本件処分を有効と認め、上告人の請求を棄却して被上告人の請求を認容した第一審判決を正当とし、上告人の控訴を棄却した。

三  しかしながら、記録によって認められる本訴提起に至った本件紛争の経緯、双方の主張及び本件訴訟の経過に照らせば、本件命令は、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に基づいて発せられたものであり、したがって、上告人の主張する正当の理由もまた、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容にかかわるものであることは明らかである。そうであるとすると、本件訴訟の争点である本件処分の効力の有無を判断するには、宗教上の教義ないし信仰の内容について一定の評価をすることを避けることができないのであるから、原審の前記判断を是認することはできず、上告人及び被上告人の訴えは、いずれも、結局、法律上の争訟性を欠き、不適法というべきである(最高裁昭和六一年(オ)第九四三号平成元年九月八日第二小法廷判決・民集四三巻八号八八九頁参照)。論旨は、以上と同旨をいう点において理由があり、本件につき本案の判断をした第一審判決及びこれを前記の見地から正当とした原判決には、法令の解釈適用を誤った違法があり、その違法が判決の結論に影響を及ぼすことは明らかであるから、原判決を破棄し、第一審判決を取り消し、上告人及び被上告人の訴えをいずれも却下することとする。

よって、民訴法四〇八条、三九六条、三八六条、九六条、八九条に従い、裁判官味村治、同三好達の反対意見があるほか、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

裁判官味村治の反対意見は、次のとおりである。

私は多数意見と異なり、上告を棄却すべきものと考えるので、以下その理由を述べる。

一  本件における上告人及び被上告人の請求の当否は、被上告人の包括宗教法人である日蓮正宗が上告人に対して行った本件処分の効力の有無によって決まる関係にあり、この点を判断するには、上告人が宗務院の命令に従わなかったことについて、本件処分の根拠とされた日蓮正宗の宗規中の「正当の理由」の有無を確定しなければならないことは、多数意見の説示するとおりである。多数意見は、そのためには、宗教上の教義ないし信仰の内容について一定の評価をすることを避けることができないから、上告人及び被上告人の訴えは、法律上の争訟性を欠き、いずれも不適法であるとする。しかし、私は、本件において、右の「正当の理由」の有無を判断するについて、宗教上の教義ないし信仰の内容について評価をする必要はないと考える。

二  原審が適法に確定したところによれば、日蓮正宗の教義ないし信仰に関する事項は法主の専権であって、上告人等による第五回全国檀徒大会の開催は右の権限に基づいて法主阿部日顕のした指南に反するもので、右大会の開催に関する上告人等の行動が日蓮正宗の教義、弘宣流布に反するものであるとの右法主の裁定は表明されており、宗務院は、同大会の開催が右の指南に反することを理由として同大会の中止を命じたが、上告人は、右命令に従わなかったため、宗規に定める懲戒事由である「正当の理由なくして宗務院の命令に従わない者」に当たるとして本件処分を受けたというのである。

以上の事実関係によれば、法主阿部日顕のした指南に係る教義ないし信仰の内容は、日蓮正宗が自治的に定めた教義ないし信仰の内容というべきであり、上告人等はこれに反する教義ないし信仰を理由として第五回全国檀徒大会を開催したもので、上告人が宗務院の命令に従わない理由として主張する教義ないし信仰の内容は、日蓮正宗が自治的に定めた教義ないし信仰の内容に反するものであったというべきである。

三  宗教団体の教義ないし信仰の内容は、その宗教団体が自治的に定めるものであることは、当然である。また、日蓮正宗が自治的に定めた教義ないし信仰の内容に反する教義ないし信仰を理由として宗務院の命令に従わないことが前記の懲戒事由に当たらないとすれば、日蓮正宗の存立及び秩序維持は不可能となるから、右の理由は前記の「正当の理由」に当たらないとすることが右の懲戒事由を定めた宗規の趣旨に合致するというべきである。

宗教団体を結成する自由及び国の干渉からの宗教活動の自由は憲法により保障されているから、裁判所は、宗教団体の自治を尊重すべきであり、宗教団体のした懲戒処分の当否は、当該宗教団体が自治的に定めた規範が公序良俗に反するなどの特別の事情のない限り、右規範に照らして決すべきである(最高裁昭和六〇年(オ)第四号同六三年一二月二〇日第三小法廷判決・裁判集民事一五五号四〇五頁参照)。したがって、日蓮正宗の僧侶等が日蓮正宗の自治的に定めた教義ないし信仰の内容に反する教義ないし信仰を理由として宗務院の命令に従わないときは、日蓮正宗の自治的に定めた教義ないし信仰の内容が公序良俗に反するなどの特別の事情のない限り、裁判所は、懲戒処分の当否を判断するについて、右の理由は前記の「正当の理由」に当たらないと解すべきものである。

本件においては、法主阿部日顕のした指南に係る教義ないし信仰の内容が公序良俗に反するなどの特別の事情のあることは認められず、また、前述のとおり、右の教義ないし信仰の内容は日蓮正宗が自治的に定めたものというべく、上告人は、これに反する内容の教義なしい信仰を理由として、宗務院の命令に従わなかったのであるから、上告人が宗務院の命令に従わなかった理由は、右の「正当の理由」に当たらないというべきであり、右の「正当の理由」の有無を判断するについて、両者の教義ないし信仰の内容について評価する必要はない。

四  本件処分が、日蓮正宗の定める手続上の準則に従ってされたものであり、かつ、懲戒権の濫用に当たらないとする原審の判断は、原審の適法に確定した事実関係の下において、正当というべきである。したがって、原判決が本件処分を有効とし、これを前提として、上告人の請求を棄却し、被上告人の請求を認容したのは、正当であって、上告理由の第一点及び第二点の論旨は、採用することができない。

また、上告理由の第三点は、被上告人の代表者である渡邉慈済を主管に任命した阿部日顕は、日蓮正宗の管長の地位にはないから、渡邉慈済は、被上告人の主管でなく、したがって、被上告人の代表役員ではないから、同人が被上告人の代表者として上告人に対し本件建物の明渡しを求める訴えは不適法であるという。しかしながら、阿部日顕が日蓮正宗における宗教活動上の地位である法主であり、したがって、管長であることは、前示したところ及び本件記録に徴し明らかである。論旨は採用することができない。

裁判官三好達の反対意見は、次のとおりである。

私は、多数意見と異なり、上告を棄却すべきものと考えるので、以下その理由を述べる。

一  宗教団体の教義ないし信仰の内容にかかわる事項については、裁判所がこれを審理、判断することは許されず、また同様に、具体的な権利義務ないし法律関係の紛争の解決を求める訴訟の形をとっていても、宗教団体の教義ないし信仰の内容にかかわる事項が単にその前提問題であるにとどまらず、その実質においてそのような事項の解決を求めることがその核心となっている争訟は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に該当しないというべきである。例えば、その解決を求める具体的な権利義務ないし法律関係自体宗教的色彩の濃いものであって、それと教義ないし信仰の内容とがいわば表裏一体となっているような争訟がそれである(最高裁昭和五一年(オ)第七四九号同五六年四月七日第三小法廷判決・民集三五巻三号四四三頁参照)。しかし、そのような争訟でない限り、前提問題となっている教義ないし信仰の内容にかかわる事項に立ち入って判断することが許されないからといって、具体的な権利義務ないし法律関係に係る争訟が「法律上の争訟」でないということはできないといわなければならない。そして、このような争訟を裁判するに当たっては、裁判所としては、その審理、判断できない事項については、当該団体が自律的に確認、決定したところに従うのがその自律権を尊重するゆえんであり、その上で、その余の争点につき審理、判断して、当該争訟につき裁判をすることができ、またそれをすることが裁判所の職責というべきである。

二  本件は、上告人が被上告人に対して被上告人の代表役員及び責任役員の地位にあることの確認を求める訴えと被上告人が上告人に対して被上告人所有の建物の明渡しを求める訴えとからなるが、いずれも日蓮正宗の管長である阿部日顕が上告人に対してした主管たる地位をはく奪する罷免処分の効力がその前提問題となっており、その効力の有無によって請求の当否が決まる関係にあること、その処分理由の存否について審理、判断するには、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容について一定の評価をすることを避けることができないことは、多数意見の説示するとおりである。しかし、一に説示したところからすれば、そうであるからといって、右各訴えが法律上の争訟性を欠くということはできない。裁判所は、教義ないし信仰の内容にかかわる事項であって、審理、判断することができないところの処分理由の存否については、日蓮正宗の自律的な確認、決定を尊重しなければならないが、教義ないし信仰の内容にかかわることのないその余の争点については、これを審理、判断した上、本件各訴えにつき本案の裁判をしなければならないのである。私は、この点で、最高裁昭和六一年(オ)九四三号平成元年九月八日第二小法廷判決・民集四三巻八号八八九頁には賛同することができない。

本件において、右処分理由の存否のほか、懲戒権の濫用の有無及び処分の手続につき日蓮正宗の定める準則の履践の有無が争点とされている。裁判所が処分の存否について日蓮正宗の自律的な確認、決定を尊重し、それが存在するものとしなければならない以上、それを理由にされた処分が懲戒権の濫用に当たるかどうかを審理、判断することもまた、教義ないし信仰の内容にわたるものとして、許されないというべきであるが、手続についての右準則の履践の有無については、裁判所は審理、判断すべきものである。けだし、手続が当該宗教団体の教義ないし信仰の内容と結び付いており、その履践の有無の判断のためには教義ないし信仰の内容に立ち入らざるを得ないような特段の事情のない限り、手続それ自体は教義ないし信仰の内容とは無関係の事柄であるからである。

三  原審の適法に確定したところによれば、上告人につき罷免理由に当たるべき事実のあったことが日蓮正宗において自律的に確認、決定されていることは明らかであるから、裁判所としてはこれを尊重してその存在を肯認すべきであり、したがってまた、罷免処分が懲戒権の濫用であるとすることはできないというべきである。さらに、原審の適法に確定したところからすれば、上告人が手続違背を主張する各手続については、前記特段の事情は認められず、かつ、上告人主張のような手続違背がなかったことは、原審の適法に確定するところである。してみれば、原判決が上告人に対する罷免処分を結局有効としたのはその結論において是認することができ、それを前提として、被上告人の請求を認容し、上告人の請求を棄却したのは、正当である。上告理由第一点及び第二点の論旨は、採用することができない。

また、上告理由の第三点は、被上告人の代表者である渡邉慈済は、阿部日顕から被上告人の新たな主管に任命され、代表役員の地位に就いた者であるところ、阿部日顕は、日蓮正宗の管長の地位にはないから、右の任命によって、渡邉慈済が被上告人の代表役員に就くことはなく、同人が被上告人の代表者として上告人に対して本件建物の明渡しを求める訴えは不適法であるという。しかしながら、このような本案前の問題として、当事者たる宗教団体の代表者の地位が争われた場合にも、その争いが当該宗教団体の教義ないし信仰の内容とかかわっており、その判断のためにはその教義ないし信仰の内容に立ち入らざるを得ないときには、裁判所は前述の方途によりこの点を判断すべきところ、記録によれば、阿部日顕が日蓮正宗の管長であるか否かは、日蓮正宗の教義ないし信仰の内容にかかわっており、その判断のためには日蓮正宗の教義ないし信仰の内容に立ち入らざるを得ないこと及び日蓮正宗おいては阿部日顕が管長の地位にあるものとされていることが明らかである。してみれば、裁判所としては、これを尊重して阿部日顕が管長の地位にあることを肯認すべきものであって、論旨は採用することができない。

四  以上要するに、原審が本案につき判断をし、上告人の請求を棄却し、被上告人の請求を認容すべきものとしたことに違法はなく、本件上告は棄却されるべきである。

(裁判長裁判官小野幹雄 裁判官大堀誠一 裁判官味村治 裁判官三好達 裁判官大白勝)

上告代理人江藤鉄兵、同弥吉弥、同片井輝夫、同小見山繁、同河合怜、同小坂嘉幸、同川村幸信、同山野一郎、同富田政義、同伊達健太郎、同竹之内明、同加藤洪太郎、同華学昭博、同仲田哲の上告理由

《目次》

上告理由書

第一点 法令違背等

一 宗務院の第五回全国檀徒大会中止命令発令権限について

1、原判決の認定

2、原判決の右認定が判決に影響を及ぼすことが明らかな法令違背であることについて

(一)本件中止命令発令権限に関する判断の法令違背および理由齟齬

(二)本件中止命令発令手続に関する判断の法令違背

(三)結論

二 監正会の裁決について

1、原判決の認定

2、原判決の右認定に法令違背および理由齟齬の違法があることについて

(一)原判決の法令違背

(二)原判決の理由齟齬

三 上告人の教義違反に関する認定について

1、原判決の認定

2、原判決の法令違背等

(一)控訴人の主張について

(二)管長阿部日顕の指南について

(三)教義上の異説裁定について

四 権利濫用の主張に対する判断について

1、原判決の認定

2、原判決の右認定が法令違背であることについて

(一)本件処分に対する宗内各機関の態度

(1)参議会

(2)監正会

(3)宗会

(4)結論

(二)被処分者たる上告人の「困惑」

(三)結論

第二点 判例違反

一 「法律上の争訟」についての最高裁判例

二 原審の認定した事実と判断

三 蓮華寺事件最高裁判決の認定事実と原判決の認定事実について

第三点 法定代理権の欠缺

一 被上告人の代表役員選任規定

二 訴外阿部日顕の被上告人教会主管任命権ならびに訴外渡辺慈済の被控訴人法人代表権の不存在

三 本件建物明渡請求事件と代表役員地位確認請求事件における訴訟要件の関係

上告理由

第一点 法令違背等

原判決には左記のとおり法令違背および理由齟齬等の違法が存する。

一 宗務院の第五回全国檀徒大会中止命令発令権限について

1、 原判決の認定

原判決は宗務院の第五回全国檀徒大会中止命令(以下単に本件中止命令という)の発令権限について以下のとおり認定する。

「宗務院が本件中止命令を発する権限を有していたかどうかの点も、右認定判断の当否に関係してくるが、前掲甲第一号証によると、宗務院の所管事項は宗務全般にわたるものであること(宗制第一五条参照)、また本件中止命令のごときは責任役員会の議決を要する事項でないこと(宗規第一五条)が認められるから、責任役員会及び管長の認定判断には、右の点での誤りはない。」

2、 原判決の右認定が判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背であることについて

原判決は右認定に先立ち、日蓮正宗の自治規範たる宗制宗規について、「本件処分については、右規定を初め懲戒処分に関する日蓮正宗の手続き上の準則に従って処分がされたか否かを検討してその有効・無効を判断すべきことになる」旨認定している。

すなわち、原判決は宗制宗規が本件処分等の効力を判断する際の基準となるべき法規範である旨認定しているものである。

しかして、原判決は宗務院のなした本件中止命令の効力を判断するために宗制宗規を解釈・適用するにあたり、前記1に引用したとおりの判断をなした。

しかしながら、原判決の右判断は法規範たる宗制宗規の解釈・適用を誤ったもの、すなわち法令に違背したものである。

その理由は以下のとおりである。

(一) 本件中止命令発令権限に関する判断の法令違背および理由齟齬

(1) 原判決は宗務院の本件中止命令発令権限について、前記のとおり「宗務院の所管事項は宗務全般にわたるものである」として宗務院に本件中止命令発令権限が存していた旨認定し、右認定をなした根拠として宗制第一五条を引用する。

そこで、原判決の引用する宗制第一五条の全文を左に掲記する。

◎ 宗制第一五条 宗務院に宗務を処理するため、庶務部、教学部、渉外部、海外部および財務部を設ける。

すなわち、右宗制第一五条の規定は日蓮正宗の宗務のうち宗務院の所管事項と定められた宗務につき、さらにこれを宗務院内部において分担する(宗制第一八条二項参照)ための宗務院内部組織を設置する旨定めた規定にすぎず、右規定が日蓮正宗における宗務全般を宗務院の所管事項とする旨定めた規定などでありえないことは規定自体から明らかである。

日蓮正宗の宗制宗規(甲第一号証)を検討すると、同宗が宗内における宗務を分担すべく設置している機関は代表役員、責任役員、責任役員会、宗会、参議会、監正会、法主、管長、宗務院等の多岐にわたっていることが認められる。

しかして、これらの諸機関のうち立法的機能を分担する宗会、司法的機能を分担する監正会等の諸機関は宗務院の権限の範囲を検討するにあたっては一応除外すると、行政的機能を分担する機関(以下単に執行機関という)としては代表役員、責任役員会、管長および宗務院の諸機関が設置されているものと認められる。

すなわち、右のような宗制宗規の諸規定からすれば、宗務院とは日蓮正宗が設置した諸機関のうち執行機関中の一機関であるにすぎず、「宗務院の所管事項は宗務全般にわたるものである」などという宗制宗規上とうてい認めうべくもない判断を前提として、宗務院に本件中止命令発令権限が存する旨認定した原判決が、原判決自ら判断の基準たる法規範であるとした宗制宗規に先ずこの点だけにおいても違背したものであることは明らかである。

(2) ところで、宗制宗規を検討すると、宗務院の宗務執行に関する権限については、宗規第一八条において、「本宗の宗務は、前条の議決(責任役員会に議決)に基き、総監の指揮監督により、宗務院で行う。」旨規定されていることが認められる。

しかして、右宗規第一八条を宗務院と同様日蓮正宗における執行機関とされている管長の権限に関する規定である宗規第一五条と比較すると、管長の権限については同条一号ないし一二号において具体的に規定されているのに対し、宗務院についてはいかなる事項を所管事項として宗務の執行をなしうるかについて具体的な規定は全く設けられていないことが認められる。

宗制宗規中管長に関する右規定と宗務院に関する右規定を比較検討すると、日蓮正宗は同宗の宗務中法規の制定・改廃、教義に関する正否の裁定等同宗にとって重要な宗務についてはこれを具体的に特定したうえ管長が執行権を有するものとし、管長権限とされた事項以外の事項を宗務院の所管事項と定めたものと認められる。

しかしながら、本件中止命令の発令について、右各宗規の規定によればこれが執行機関中管長の権限に属する事項でないことは明らかであるが、そうだからといってこれが直ちにその余の宗務として宗務院の所管事項に属するものと認められるということにならないことはいうまでもないところである。

けだし、宗務院の名をもってなされたあらゆる行為が宗規第一八条によって正当な宗務の執行と認められるなどということはありえないことであり、本件中止命令の発令権が宗務院に存したか否かについては、さらに宗制宗規の規定全体から判断すべきものだからである。

しかして、宗制宗規を検討すると、宗規第四〇条ないし第四四条には前記宗制第一五条に基づき宗務院内部に設けられた各部における事務分掌に関する規定が設けられていることが認められる。

もちろん、事務分掌に関する規定は宗務執行権限に関する規定とは規定の本質を異にするものではあるが、右宗規第四〇条ないし第四四条の各規定は宗務院の宗務執行に関する所管事項を判断する資料にはなりうるものと認められる。

しかしながら、右各規定を仔細に検討しても宗務院に僧侶または檀信徒らの集会に対して中止命令を発令しうる権限が賦与されていたものと認めうべき規定等は全く存在しない。

また、宗制宗規において右宗規第四〇条ないし第四四条以外に宗務院に本件中止命令発令権限が存することを窺わせるに足りる規定も全く認められない。

以上のような宗制宗規の内容から判断すれば、日蓮正宗においてはそもそも僧侶または檀信徒らの集会につきこれを制限または禁止するなどということは全く予想されておらず、したがって宗制宗規上宗務院であるとあるいは他の機関であるとを問わず、およそ本件中止命令のごとき命令を発令しうる権限を有する機関もまた存在しないものというべきである。

(3) そもそも、日蓮正宗であると否とを問わず、およそいかなる宗教団体においても、これに所属する僧侶などの聖職者が第五回全国檀徒大会のごとき信者の集会を開催して自己の教義・信仰に関する信念を披瀝し、もって当該宗教団体の布教ないし信者の教化・育成を図ることは僧侶などの聖職者の使命というべく、大いに推奨されこそすれ、これが当該団体の執行機関によって制限・禁止されるなどということがありえないことは社会通念上明白である。

日蓮正宗においてもことは同様であり、上告人のような教師資格を有する僧侶が檀信徒と合同で開催する集会は日蓮正宗創設以来無数にくり返されてきたが、これが執行機関によって禁止された事例など全く存在せず、いわんや集会開催行為が懲戒処分の対象となるなどということはおよそありうべくもないことであった。

したがって、かかる集会について宗務院が中止命令を発令しうべき根拠規定が宗制宗規上設けられていないのはむしろ当然である。

けだし、宗教団体がこれに所属する聖職者の行う言論・集会を手段とする布教活動に対して制限・禁止を加えることは宗教団体にとって自殺行為ともいうべき行為だからである。

ところで、宗制宗規を検討すると、日蓮正宗はその所属する聖職者たる僧侶が言論・集会等を手段として行う布教活動に対する部分的な制限規定として宗規第二一三条を設けていることが認められる。

◎ 宗規第二一三条 教師は、教典の注釈書または教義に関する著述をすることができる。但し、この場合は宗務院の許可を受けなければならない。また、定期の出版物は、宗務院に届出るものとする。

宗制宗規の右規定から類推しても、日蓮正宗において僧侶が集会を開催する場合には、宗務院の許可または届出等は一切必要がなく、僧侶自らの判断においても自由に開催することができるのであって、宗務院には僧侶の集会に対して本件中止命令のごとき制限・禁止を発令しうべき権限は宗制宗規上全く認められていないものというべきである。

(4) また、宗教団体における構成員に対する統制権行使の観点から本件中止命令発令権限を検討しても、日蓮正宗のごとくその内部組織中に宗会と称する自治規範定立に関する機関を設置したうえ、同機関において宗制宗規と称する自治規範を定立し、右自治規範中に統制権を行使する機関、行使の手続等のほか、構成員のいかなる行為に対して統制権が行使されるかという統制権行使の対象となる行為に関する構成要件まで詳細に定め、かつこれら自治規範が団体内に公布されて構成員に周知せしめる手続がとられている団体においては、構成員が自治規範に定められた統制権行使の対象となるべき構成要件に該当する行為をなした場合に、統制権行使権限を賦与された機関が統制権行使手続に従って統制権を行使すべきであって、右以外の方法による統制権行使は許されないものというべきである。

けだし、右のような自治規範を定立している団体においては、自治規範に従って統制権を行使すべき旨、換言すれば自治規範に定めた以外には統制権を行使しない旨、すなわち自らの統制権行使について一定の制限を加えた旨を、公布した自治規範において構成員に対して宣言しているものと解せざるをえないからである。

そうでなければ、当該団体の構成員はいつどこでどのような行為についていかなる統制権行使がなされるか全く予測することができず、当該団体内部の行動に関して行動の基準を失い、不測の損害を蒙らざるをえないこととなり、団体構成員による活動自体を不可能ならしめるという結果とならざるをえないであろう。

(5) 以上のとおり、第五回全国檀徒大会のごとき日蓮正宗の僧侶または檀信徒らの開催する集会等について、これが日蓮正宗の執行機関による中止命令発令の対象となることなど宗制宗規は全く予想しておらず、したがって宗務院が本件中止命令を発令しうる権限を有していなかったことは宗制宗規上明白である。

原判決は参議会の答申に関する断定を示した個所においては、答申の効力に関する規定が宗制宗規に存在しないことをも理由としてその効力を否定しているのであるから、これと同じ手法をもって宗務院の本件中止命令権限についての判断をなしたとすれば、宗務院が本件中止命令発令権限を有する旨の規定が宗制宗規に存在しない以上、原判決といえども宗務院は右権限を有していなかったとの結論に到達せざるをえなかったはずである。

仮に、昭和五五年八月当時日蓮正宗の執行機関が第五回全国檀徒大会に対して宗制宗規に根拠のある有効な中止命令を発令しようとすれば、宗制第二四条一項に基づいて臨時宗会を開催して宗務院に本件中止命令発令権限を与える旨の宗制宗規の改正を実施するか(そのような改正が日蓮正宗の教義をひろめることを目的とする同宗に対して自縄自縛となることは当然であるが)、あるいは宗規第一六条に基づいて責任役員会の議決により右と同旨の宗令を出す以外に方法がなかったはずである。

しかるに、本件中止命令が右いずれの方法にもよることなしに発令されたものであることは明らかであり、したがって宗務院がこれを発令しうべき権限を有しないのに無権限で発令した無効な命令というほかないことは宗制宗規自体から明白である。

よって、前記のとおり宗制第一五条などというおよそ見当外れの規定のみを根拠として、参議会の答申の効力に対して示した判断とは正反対に宗制宗規上の根拠もなく宗務院の本件中止命令発令権限を認定した原判決は明らかに法令に違背し、かつ理由齟齬の違法があるものといわざるをえない。

(二) 本件中止命令発令手続に関する判断の法令違背

(1) 原判決は宗務院の本件中止命令発令権限について法令違背の判断をなしたうえ、これに引き続き本件中止命令発令手続についても、前記のとおり「本件中止命令のごときは責任役員会の議決を要する事項でないこと(宗規第一五条参照)が認められる」旨認定する。

そこで、先ず原判決が右認定の根拠として引用した宗規第一五条を左に掲記する。

◎ 宗規第一五条 管長は、この法人の責任役員会の議決に基いて、左の宗務を行う。

(以下略)

すなわち、宗規第一五条は宗務院の発令した本件中止命令について、その発令手続を定めた規定などとは全く無関係な管長の行う宗務に関する規定であることが規定自体から明らかである。

すなわち、原判決は右のとおり全く見当外れの規定を引用することによって右のような認定をなしていること自体すでに明白な法令違背を犯しているものというべきである。

(2) ところで、日蓮正宗がその各執行機関の宗務執行手続についてどのように規定しているかをみると、左に掲記する各規定を設けていることが認められる。

◎ 宗制第九条 責任役員は、この法人の事務を決定する(以下略)。

◎ 宗規第一五条 管長は、この法人の責任役員会の議決に基いて、左の宗務を行う(以下略)。

◎ 宗規第一七条 本宗の宗務は、この法人の責任役員が、その会議である役員会で議決する。

◎ 宗規第一八条 本宗の宗務は、前条の議決に基き、総監の指揮監督により、宗務院で行う。

すなわち、右宗規の各規定によれば、管長または宗務院の執行する全ての宗務については、宗務執行手続として宗務執行に先立ち責任役員会の議決が必要である旨、換言すれば、責任役員会の議決の存在が右各執行機関によって執行される宗務の効力要件である旨規定していることが認められる。

原判決は前記のとおり「本件中止命令のごときは責任役員会の議決を要する事項ではないこと(宗規第一五条参照)が認められる」旨認定するが、参照すべしという引用条文そのものが全く見当外れで宗務院に関する規定ですらないというお粗末さはともかくとして、仮に本件中止命令については宗務院がこれを発令しうる権限を有していたとしても、これを執行するためには前記宗制宗規の諸規定によれば責任役員会の議決に基づくことを要するのは自明であり、責任役員会の議決を要しないとする原判決の判断が宗制宗規の明文の規定に反した法令違背の判断であることに疑問の余地はない。

しかして、宗務院が本件中止命令を発令するにあたり、責任役員会の議決がなされなかった事実については本件において当事者間に争いがないところである。

よって、本件中止命令はその発令手続においても宗規の定める手続に違反し、効力要件を欠缺した無効な命令というべきであり、右の点に関する原判決の認定もまた以上のとおり法令違背であることを示している。

(3) 結論

原判決が本件中止命令の発令権限および発令手続に関する法令である宗制宗規に違背することなく適法な認定をなし、本件中止命令が宗務院によって権限もなく、手続上効力要件も欠缺したままなされた無効な命令であると認定していれば、右命令が有効であることを前提としてなされた本件処分もまた無効であるとの結論に達し、上告人の請求が認容され、被上告人の請求が棄却されることとなる。

よって、原判決の前記認定は絶対的上告理由たる理由齟齬の違法があるばかりでなく、その法令違背も判決に影響を及ぼすことの明らかなものというべきである。

二 監正会の裁決について

1. 原判決の認定

原判決は昭和五五年九月二五日に監正会が第五回全国檀徒大会出席者に対して処罰をしてはならないとの趣旨の裁決文を採択してこれを管長に上申したことは当事者に争いがないとしたうえで、右裁決の効力について左のとおり認定する。

「甲第一号証によると、日蓮正宗では宗務の執行に関する紛議決または懲戒処分につき異議の申立てを調査し、裁決する機関として監正会が置かれている(宗制第三二条)が、具体的な審査事項としては、宗規第三五条、第一三〇条が選挙又は当選の効力につき、宗規第三五条、第二五五条が懲戒処分に関する不服申立てにつきそれぞれ規定していること、右規定はいずれも選挙が施行され、懲戒処分がされた後の異議又は不服申立てに関する規定であることが認められ、そうであれば、監正会は、宗務の執行又は懲戒処分に関する事後的審査権限を有するにすぎない機関であるというべきである。したがって、監正会がした右の裁決は監正会の職務権限外の行為であるといえるから、その効力を生ずるに由ないものである。」

2. 原判決の右認定に法令違背および理由齟齬の違法があることについて

(一) 原判決の法令違背

日蓮正宗が宗制第三二条において「この法人に、宗務の執行に関する紛議または懲戒処分につき、異議の申立を調査し、裁決する機関として監正会を置く。」旨規定していることは原判決の認定しているとおりである。

しかして、右宗制の規定によれば、監正会は

① 宗務の執行に関する紛議につき異議の申立を調査し、裁決する権限および

② 懲戒処分につき異議の申立を調査し、裁決する権限

をそれぞれ有することは規定の文言自体から明らかである。

すなわち、右宗制第三二条自体が監正会の具体的な審査事項を定めた規定であると認められる。

ところが、原判決は

◎ 宗規第三五条一項 監正会の裁決を求めるには、選挙については宗規第一三〇条に定める期日以内に、懲戒処分についてはその宣告を受けた日から一四日以内に書面をもって会長に申立てなければならない。

との規定を根拠として、前記のとおり監正会は宗務の執行または懲戒処分に対する事後的審査権限を有するにすぎない機関である旨の認定をなした。

そこで、宗制で定められた監正会の権限のうち、右①の宗務の執行に関する紛議についての調査・裁決権限について検討する。

先ず、宗規第一三〇条に選挙人または被選挙人は選挙または当選の効力について異議があるときは、監正会長に申立ができる旨規定されていることは原判決の指摘するとおりである。

ところで、宗規第一三〇条の規定する選挙または当選に関する異議が果して宗制第三二条の規定する宗務の執行に関する紛議に該当するか否かはにわかに断定しがたいところであろう。

しかしながら、仮に選挙または当選に関する異議が宗務の執行に関する紛議であるとしても、逆に宗務の執行に関する紛議が選挙または当選の効力に関する異議のみにとどまらないことは論を俟つまでもないところである。

したがって、宗規第三五条一項は宗務の執行に関する紛議のうち、選挙については宗規第一三〇条に定める期日以内に申立てなければならない旨を定めた規定であるにすぎず、宗制第三二条の規定にもかかわらず、監正会は宗務の執行に関する紛議のうち、選挙についてのみ裁決権を有し、その余宗務の執行に関する紛議については裁決権を有しない旨定めた規定などではないものといわなければならない。

すなわち、宗規第三五条一項は早期に一義的な解決を図ることが望ましい選挙に関する異議、あるいは速やかに被処分者の権利回復が図られることが望ましい懲戒処分に関する異議等について申立に関する除斥期間を定めた規定であり、宗制第三二条で定められた監正会の権限についてこれに制約を加えている規定ではないものというべきである。

そうすると、選挙以外の宗務の執行に関する紛議について申立がなされた場合には、監正会は宗制第三二条に基づき、宗務の執行前であると執行後であるとを問わず、これを調査し裁決する権限を有していることとなる。

そうでなければ、監正会が宗務の執行に関する紛議について調査し、裁決権限を有する旨明文をもって定めた宗制第三二条の趣旨は没却されたことにならざるをえないであろう。

よって、監正会が上告人らから出されていた昭和五五年九月一七日付の処分の事前禁止の申立てに対し、同月二五日付をもってなした第五回全国檀徒大会出席者に対して処罰をしてはならないとの趣旨の裁決(以下本件裁決という)は、監正会の職務権限内の行為であるものと認められるから、当然に有効な裁決と認定されるべきものである。

にもかかわらず、監正会の右裁決について、職務権限外の行為としてこれを無効である旨の認定をなした原判決が日蓮正宗の手続上の準則に反し、したがって法令に違背したものであり、右法令違背は判決に明らかな影響を及ぼすものであることは明白である。

(二) 原判決の理由齟齬

原判決は宗務院の発令した本件中止命令については、前記のとおり宗制第一五条を根拠として発令権限を有する旨の認定をなし、宗規第一五条を根拠として右発令に責任役員会の議決は不要である旨の認定をなした。

原判決の右各認定がいずれも宗制宗規の明文の規定に反し、法令に違背したものであることはすでに指摘したとおりである。

しかしながら、原判決の右のような態度から判断すると、原判決は自ら認定の準則である旨宣言した宗制宗規の明文の規定に反するものであろうとも、日蓮正宗の一機関である宗務院の発令した本件中止命令については、遮二無二その効力を認めようと企図していたことを容易に推認することができる。

原判決が右のような態度を監正会のなした本件裁決の効力を判断するにあたっても一貫するとすれば、いかなる認定がなされるべきであるのか。宗務院、監正会のいずれも日蓮正宗が宗制宗規に基づいて設置した機関であることに疑問の余地はない。

しかして、宗制第三二条によれば監正会は宗務院の執行する宗務についても紛議が生じた場合には、これを調査し裁決する権限を有し、宗規第三二条によれば監正会の裁決については何人も干渉することができず、同三三条によれば監正会の裁決を得た事件に対しては異議の申立ができない旨規定されているのであるから、宗制宗規上監正会についてその判断を軽視または無視するに足りる機関であるとはとうてい認めがたいところである。

そうだとすると、原判決が宗務院の発令した本件中止命令の効力を前記のような手段によって認めようとするのであれば、監正会が前記申立につき自ら裁決権限が有するものと判断してなした本件裁決についても当然その効力を認めるのが首尾一貫した態度というべきである。

特に本件中止命令については、前記のとおり宗務院がその発令権限を有する旨の規定がなく、発令手続についてその合法性を認めることは宗規第一八条に規定されている明文に反することとなるのに対し、前記監正会裁決については前記のとおり宗制宗規上監正会に裁決権限が存することが容易に認定しうるのであって、あえて宗制宗規の明文に反した認定をなす必要など全くないのであるから、それにもかかわらず本件裁決の効力を否定した原判決には一貫性が全く認められず、明らかに判決理由には理由齟齬の違法があるものといわなければならない。

三 上告人の教義違反に関する認定について

1. 原判決の認定

原判決を検討すると、次のような部分がある。

「控訴人は、本件処分の手続として、管長が、まず教義についての否定の裁定を下し、控訴人に見解を改めるよう訓戒すべしと言うが、既に見てきたように、本件第五回檀徒大会の開催については、宗務院から管長阿部日顕の指南に反するものであるので中止するよう三度にわたり警告を受けているのであるから、控訴人らの行動が日蓮正宗の教義、弘宣流布に反するものであるとの裁定は表明されており、中止警告の中に訓戒も含まれているものと見ることができる。

控訴人の右主張も採用することができない。」

2. 原判決の法令違背等

原判決の右認定は理由齟齬、理由不備、法令違背の集大成のとごときものである。

(一) 控訴人の主張について

原判決は前記のとおり「控訴人は、本件処分の手続として、管長がまず教義についての裁定を下し、控訴人に見解を改めるよう訓戒すべしと」主張したなどと認定しているが、上告人は第一、二審を通じて右のような主張をした事実は全くない。

原判決は右部分に関する事実摘示自体すでに誤りを犯しているのである。

しかして、当事者が主張してもいない主張を虚構したうえ、後記のとおり宗制宗規上の根拠すら認められない理由によってこれを排斥してみせるとは驚くべき判決であり、これが上告理由としては絶対的上告理由たる理由齟齬に該当することは明白である。

(二) 管長阿部日顕の指南について

本件第一、二審を通じて当事者双方から提出された書証によれば、日蓮正宗において「指南」とは法主の行う宗教上の事項に関する発言を意味する用語として使用されていることが明らかである。

しかして、日蓮正宗おいて宗制宗規に規定された機関としての法主は本尊書写、日号等の授与(宗規第一四条一項)および次期法主の選定(同条二項)の権限を有するのみであり、右のような宗教上の事項に関する法主の「指南」なる行為が宗制宗規上何らかの効力を生じるなどということはありえない。

また、逆に日蓮正宗においては管長が「指南」などという行為をなすこともなく、いわんや管長の「指南」により異説の裁定がなされるなどということもありえないことは宗制宗規上も明白である。

原判決の右認定が宗制宗規に反し、したがって法令に違背したものであることは明らかである。

(三) 教義上の異説裁定について

日蓮正宗において教義に関して正否を裁定する権限を有する機関は管長であるが、管長は責任役員会の議決に基づき正否を裁定する旨規定されている(宗規第一五条五号)。

すなわち、宗制宗規の定めるところによれば、日蓮正宗における教義に関する正否の裁定とは、管長による日蓮正宗の教義に関する裁定であることを明確にしたうえ、被裁定者の唱える言説中のどの部分が日蓮正宗の多様な教義のうちどの教義に対する異説であるのか、これに対応するいかなる説が教義に照らして正統な説であるが裁定され、しかる後宗規第二四九条四号に基づく訓戒であることが明示されたうえで被裁定者に対する通告が行われるべきものであり、原判決の認定するように、第五回全国檀徒大会について、これを開催する行為が日蓮正宗のいかなる正統教義に違反しているかも示すことなく、宗務院の発した警告中に管長の教義に関する正否の裁定も表明されたり、訓戒が含まれたりなどすることは絶対にありえない。

現に右大会の開催に関してこれが日蓮正宗の教義のいずれかの部分に照らして異説であるなどという管長の裁定がなされた事実もなく、もちろん宗規第二四九条四号の訓戒がなされた事実もないことは第一、二審を通じて取調済みの証拠からも明白である。

そもそも、上告人らによる第五回全国檀徒大会の開催行為が日蓮正宗の何らかの教義に違反したものであり、その旨の管長による裁定がなされたなどという主張は第一、二審を通じて被上告人すらなしていないのである。

なお、原判決は上告人らの行動が「日蓮正宗の教義、弘宣流布に反するものであるとの裁定」が表明されたなどという認定をなしているが、第一、二審において当事者双方から提出された各証拠によれば、日蓮正宗における「弘宣流布」とはわが国において天皇をはじめ国民の大多数を同宗に帰依せしめたことにより、同宗の布教目的が達成された状態を意味する用語であり、したがって「教義」と「弘宣流布」とは全く異質の意義を有しているのであって、「教義、弘宣流布」などとあたかも両者が同義語であるかのごとく並列的に使用されるということはありえないことが認められる。

よって、上告人らが、「弘宣流布に反する」などということもありえないことが明白であり、また、日蓮正宗の管長において「構成員が弘宣流布に反した」などという教義裁定をなすことも絶対にありえないことである。

原判決は日蓮正宗の教義に関連する内容にまで容喙し、当事者が主張すらしておらず、もちろん事実認定に供すべき証拠も存在せず、日蓮正宗の定めた自治規範たる宗制宗規まで無視し、全くの予断と偏見のみに基づいた判断をなした結果、右のような結論を示すに至った。

ところで、原判決は本件処分の効力に関する判断を示した個所においては、本件処分が宗教上の問題と関連性が存するのであれば、「裁判所の判断が及ばないのではないかとの疑問も生じてくる。」などととも一応は述べているが、別の個所においては右のように「控訴人らの行動が日蓮正宗の教義、弘宣流布に反するものであるとの阿部日顕の裁定は表明され」たなどという明らかに司法裁判所の介入すべからざる宗教団体の教義そのものについての認定をなしているのであるから、原判決の右各認定は明らかに理由齟齬の違法があると同時に、裁判所の権限が法律上の争訟を裁判するものである旨定めた裁判所法第三条および裁判所が宗教団体の信仰上の事項等に干渉することを禁じた宗教法人法第八五条等の法令に違背し、ひいては基本的人権として信教の自由を保障した憲法第二〇条にも違反した法令違背の違法もあるものというべきである。

以上のとおり、原判決の教義違反に関する認定には理由齟齬および判決に影響を及ぼすこと明らかな法令違背の各違法が存することは明白であり、この点だけでも原判決は十分破棄に値するものというべきである。

四 権利濫用の主張に対する判断について

1. 原判決の認定

原判決は本件処分が懲戒権の濫用であるとする上告人の主張に対し、左のとおり認定する。

「日蓮正宗が殊更に控訴人らの言論を圧殺することのみを目的として本件中止命令を発し、また専ら控訴人らを困惑させることのみを目的として本件処分に及んだという証拠はないから、控訴人の右主張は採用しない」

2. 原判決の右認定が法令違背であることについて

(一) 本件処分に対する宗内各機関の態度

日蓮正宗の管長がなした本件処分について、当事者間に争いのない事実および第一、二審が認定した事実によれば、日蓮正宗の各機関はそれぞれ左のとおりの態度を示したことが認められる。

(1) 参議会

原判決の認定したところによれば、本件処分について諮問を受けた参議会は昭和五五年九月二四日に開催されたが、議長を含めた六名の議員が投票した結果は処分案に賛成するもの二票、反対するもの三票であったことが認められる。

しかして、原判決は右投票結果につき、参議会は可否いずれの答申も出すことができなかった旨認定している。

(2) 監正会

原判決の認定したところによれば、監正会は昭和五五年九月二五日第五回全国檀徒大会出席者に対して処罰をしてはならないとの趣旨の裁決をなし、また同月二九日には本件処分が無効である旨の裁決をなしたことが認められる。

しかして、宗規第二九条一項には監正会は常任監正員の定数(五人―宗規第二四条一項)全員の出席がなければ開会することができないと規定され、同第三八条二項には監正会の裁決は常任監正員の定数の過半数で決すると規定されているので、右二回の裁決にあたり監正会に出席した五人の監正員のうち少なくとも過半数すなわち三人以上の監正員が本件処分に反対である旨を表明したことが明らかである。

(3) 宗会

宗会が本件処分について審議した事実については本件証拠上これを認めることができない。

しかしながら、昭和五五年六月に実施された宗会議員の総選挙(宗規第一三六条、第一三八条)において、宗会議員定数一六名(宗制第二二条)のうち上告人と同様正信会に所属する僧侶一〇名が当選した(上告人もその一人であった)事実については当事者間に争いがない。よって、仮に、本件処分の是否について宗会における審議がなされたとすれば、過半数を超える反対により本件処分を行う旨の提案が否決されたであろうことは容易に推認しうるところである。

(4) 結論

以上のとおり、日蓮正宗の主たる機関のうち宗会、監正会等はいずれも本件処分について反対であったことが認定または推認され、六人の定数中半数の三人は代表役員によって任命された者で構成されている参議会(宗制第二九条)ですら少くとも本件処分に賛成することはできなかったことが認められる。

すなわち、右各事実から判断すれば、本件処分に賛成していたのは、日蓮正宗内部の各機関中わずかに本件処分の一方の当事者である管長のみであったことが明らかである。

(二) 被処分者たる上告人の「困惑」

原判決は前記のとおり日蓮正宗が専ら上告人を困惑させることのみを目的として本件処分に及んだという証拠はない旨認定する。

しかしながら、上告人が十代半ばの少年時に出家して以来ひたすら日蓮正宗の僧侶として研鑽を重ね、本件処分当時は被上告人教会の主管・代表役員として、また日蓮正宗の宗会議員として日夜右各業務に専心していたこと、そのため日蓮正宗内部においても他の僧侶らの尊敬を受け、昭和五四年六月二六日に実施された宗会議員補欠選挙においては有効投票数五五四票のうち四一二票を得票するという高い支持を得て宗会議員に当選し、同五五年六月に実施された宗会議員総選挙においても再選されており、この間日蓮正宗の僧侶として非難を受けるような非行など全くなかったことおよび上告人は被上告人教会所有の本件建物に妻子と共に居住し、被上告人教会代表役員として受領する報酬によって上告人および妻子ら家族の生計を維持していたものであるから、本件処分の効力が是認されると生計を維持すべき収入および生活の本拠たる住居等市民生活の根幹をなす権利・利益を全て失うに至るばかりでなく、従来の日蓮正宗僧侶としての人生そのものまで否定されるに至ること等についてはいずれも当事者間に争いのない事実である。

したがって、上告人は本件処分により「困惑」という用語などではとうてい表現され尽せない致命的な打撃を蒙ることは明白である。

しかして、被上告人教会と同様な日蓮正宗の被包括法人(末寺)の住職・代表役員の地位にある者が本件処分と同様の擯斥処分を受けた場合には、上告人であると否とを問わず右のように致命的打撃を蒙ることは管長においても十分に承知しているところであるから、本件処分は被処分者たる上告人に右のような致命的な打撃を与えることを目的としてなされたものというべきである。

(三) 結論

以上のとおり、本件処分については日蓮正宗内部の主要な諸機関のうち、管長ら執行機関以外の全ての機関が反対ないし不賛成であったことが明らかであり、また他方このような処分により被処分者たる上告人は回復しがたい致命的な打撃を蒙むることもまた十分に認定されうるところであった。

よって、これらの諸事実を前提とすれば、本件処分については当然懲戒権を濫用したものとしてこれを無効とする認定がなされるべきであった。

現判決は、この点においても認定事実の評価にあたって法令の適用を誤り、法令違背の違法を犯したものであるが、右法令違背もまた判決に影響を及ぼすことが明らかなものというべきである。

第二点 判例違反

原判決には裁判所の審判権のない事項について実体判断をした違法がある。

一 「法律上の争訟」についての最高裁判例

裁判所の審判の対象は裁判所法第三条により「法律上の争訟」に限られる。そして、「法律上の争訟」の意義については最高裁判所昭和六一年(オ)第九四三号平成元年九月八日第三小法廷判決(判例時報一三二九号一一頁以下)はつぎのとおり判示している。(以下本判決を蓮華寺事件最高裁判決という)

『裁判所がその固有の権限に基づいて審判することのできる対象は、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」、すなわち当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争であって、かつ、法令の適用により終局的に解決することができるものに限られ、したがって、具体的な権利義務ないし法律関係に関する紛争であっても、法令の適用により解決するに適しないものは、裁判所の審判の対象となり得ないというべきである(最高裁昭和五一年(オ)第七四九号同五六年四月七日第三小法廷判決・民集三五巻三号四四三頁参照)。

(中略)

そして、宗教団体における宗教上の教義、信仰に関する事項については憲法上国の干渉からの自由が保障されているのであるから、これらの事項については、裁判所は、その自由に介入すべきではなく、一切の審判権を有しないとともに、これらの事項にかかわる紛議については厳に中立を保つべきであることは、憲法二〇条のほか、宗教法人法一条二項、八五条の規定の趣旨に鑑み明らかなところである(最高裁昭和五二年(オ)第一七七号同五五年四月一〇日第一小法廷判決・裁判集民事一二九号四三九頁、前記昭和五六年四月七日第三小法廷判決参照)。

(中略)

したがってまた、当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であっても、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなすとともに、それが宗教上の教義、信仰の内容に深くかかわっているため、右教義、信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合には、右訴訟は、その実質において法令の適用による終局的解決に適しないものとして、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に当たらないというべきである(前記昭和五六年四月七日第三小法廷判決参照)。』

本件が具体的な権利義務ないし法律関係に関する訴訟であることは明らかであり、かつ、宗教団体内部においてされた懲戒処分の効力が請求の当否を決する前提問題となっており、その効力の有無が当事者間の紛争の本質的争点をなしていることも疑いない。

従って、問題は、本件が

「右処分が宗教上の教義・信仰の内容に深くかかわっているため、右教義・信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することが出来ず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合」

にあたるか否かであり、然りとすれば、蓮華寺事件最高裁判決および、右判決に引用された最高裁判決による限り、被上告人の本件請求は裁判所の審判権の及ばない事項について裁判を求めるものであり、却下されねばならないこととなる。

二 原審の認定した事実と判断

原判決は、本件処分に至るまでの経緯として自ら認定した事実に照らして考えるとして

『控訴人らが本件中止命令に従わなかったのは、創価学会の現状に対する批判及び正信覚醒運動の活動方針を発表することが自分たちの使命であるという認識から出たものと認められるところこれは、日蓮正宗の教義の解釈を前提とする信者の教化育成の在り方という宗教上の問題にかかわる事柄であると言わなければならない。』

と認定判断している。

そして、原判決は

『そうすると、控訴人が正当の理由なくして本件中止命令に従わなかったという理由(宗規第二四八条第二号)に基づく本件処分の効力については、裁判所の判断が及ばないのではないかとの疑問も生じてくる。』

と自ら疑問を呈した上で、

『しかしながら、宗務院の命令に従わないことを許される「正当の理由」の中に、教義、信仰に関する事項も含まれると解することは、宗教団体としての日蓮正宗の宗規の解釈としては、およそ不可能である。けだし、これを積極に解するときは、教義、信仰に関する事項は法主(管長)の専権であるにもかかわらず、「正当の理由」の名の下に、右事項に関する受命者個人の独自の見解を主張して宗務院の命令を無視することができるからである。したがって、右「正当の理由」には教義、信仰にかかわる事由は含まれず、また、信者の教化育成の在り方その他宗教上の事由をもって本件中止命令の効力を争うこともできないものと解すべきであり、』

という。

原判決の右宗規第二四八条の解釈は宗教団体である日蓮正宗宗規の解釈として明らかに誤っており、以下にその誤りについて論証するが、原判決は、その前にきわめて単純な誤謬を唯一の前提としているので、まず、その誤謬について述べる。

すなわち、原判決は、「教義・信仰に関する事項は法主(管長)の専権である」としている。日蓮正宗の宗制宗規、日蓮正宗の実体についてのみならず宗教者・宗教団体について最低限の理解すら欠く非常識な判断である。

日蓮正宗は、宗制第三条にあるとおり「宗祖日蓮立教開宗の本義たる弘安二年の戒壇の本尊を信仰の主体とし、法華経及び宗祖遺文を所依の教典として、宗祖より付法所伝の教義をひろめ、儀式行事を行ない、弘宣流布のため信者を教化育成し、寺院及び教会を包括し、その他この宗派の目的を達成するための業務及び事業を行なうこと」を目的とする団体であり、団体に所属する者各自が右教義を信奉し、各自がこれを実践する主体とされているのである。日蓮正宗において、教義・信仰に関する事項は、決して「法主(管長)の専権」ではない。

日蓮正宗宗規第一五条は管長の権限として責任役員会の議決に基づいて左の宗務を行うと定めその第五号は「教義に関して正否を裁定する」と規定されている。これは教義について、複数の解釈が主張された場合は、管長が、いずれが正統であり異端であるかを裁定する権限を有するとの規定である。原判決が、教義・信仰については管長の専権であるとした点について、宗制宗規上僅かに拘わりがあるのは右の管長の「異説裁定権」のみであり、その範囲を超えて管長の専権に属する事項などは存在しない。

さらに、原判決の決定的な誤りは、管長と宗務院を同一機関とみなしている点にある。日蓮正宗において宗務院とは、総監以下の役職員をもって構成される事務執行機関であり、その責任者は総監である(宗制第一五条ないし第一八条)。宗制宗規上、管長と宗務院は、全く別の機関であり、その権限は当然明確に区分されている。

原判決は、機関としても独立別個の機関であり、所管事務としても明らかに区別されている管長と宗務院を同一視するという誤りを犯し、そのことを唯一の理由として、宗規の解釈を誤ったのである。

本来、行政事務執行を目的とする宗務院如きものに教師である僧侶の教義・信仰に容喙する権限のあるべきいわれはなく、そのことは、宗制宗規上も明らかなことである。原判決が、教義・信仰に関する事項は法主(管長)の専権であるとするのは前記のとおり明らかな誤りもしくはきわめて不正確な表現であるけれども、いずれにせよ宗務院には教義・信仰に関するなんらの権限もないことは、右原判決の判示自体が前提としていることである。したがって、仮に宗務院が教義・信仰に関するなんらかの命令を発したとしても、なんらの法的効果を持ち得ないことはさきに陳述したとおりであるし、また事実上命令が発せられたとしても、その正統性が争われたとき宗務院の判断が他の僧侶の判断に優先し、正統性を主張しうるとか宗務院の見解が管長の異説裁定権に服さないという根拠は全くないのである。

管長に異説裁定権があるというのは、教団構成員間に教義解釈の相異の可能性があることを前提として教義解釈の統一を保持しようとする制度であり、対立する教義解釈者の一方が総監などの役僧であったり、これら役僧で構成されている宗務院など宗内機関であることも有り得ると考えなければならない。

けだし、もし、そうでなく、総監、宗務院などの宗務執行機関が、教義・信仰にかかわる事項についての有権的判断をなしうるとすれば、これが管長の重要な権限(原判決によれば法主管長の専権)に対する侵犯となることは明らかだからである。

したがって、宗規第二四八条二号にいう「正当な理由」に教義・信仰上の理由が含まれると解釈した場合に、原判決のいうように『「正当な理由」の名の下に右事項に関する受命者個人の独自の見解を主張して宗務院の命令を無視することができた』としても問題は教団内においては最終的に管長の異説裁定に持ち込まれる場合があるにとどまり、なんらの不都合はない。右のとおり原判決が宗規二四八条二号にいう「正当な理由」には教義・信仰上の理由が含まれないとの解釈の根拠として説示したことはいずれも全く理由となり得ないことが明らかとなった。

そもそも宗教団体は、特定の教義を信奉し、これを実践し布教することを唯一の目的とする結社であり、教団の秩序の維持も、右の目的のために要請されることであって秩序維持それ自体が自己目的ではないことは明らかである上、前記のとおり、教団構成員たる僧侶は、それぞれ自らが信仰する教義に基づいて布教を行うのであり、それが宗教者の本質であり、生命である。

このような宗教団体の構成員たる僧侶の行動原理としての「正当な理由」に最も重要な教義・信仰上の理由が含まれないとの原判決の解釈はきわめて不自然であり、なんらの説得力もない。

以上の次第で、本件処分の有効性を主張する処分者側は、上告人が本件命令に従わないことに「正当な理由」のないことを主張し、立証しなければならないところ、原判決の認定によれば、本件において上告人が本件命令に従わなかった理由は、本件命令が日蓮正宗の教義・信仰上誤った内容を有する命令であると判断したためというのであるから、処分者側としては、右命令が日蓮正宗の教義・信仰上正しいことを論証しなければならない筋合いである。

しかして、裁判所は「教義・信仰上の正しさ」について審判権を有しないことはいうまでもなく原判決の認定した事実による限り、本件は蓮華寺事件最高裁判決の判示する「処分が宗教上の教義・信仰の内容に深くかかわっているため、右教義・信仰の内容に立ち入ることなくしてその効力の有無を判断することができず、しかも、その判断が訴訟の帰趨を左右する必要不可欠のものである場合」に該り、被上告人の請求が却下されなければならない事案であり、原判決は右最高裁判例に違反することは明白なのである。

三 蓮華寺事件最高裁判決の認定事実と原判決の認定事実について

蓮華寺事件最高裁判決は、その原審大阪高裁のした訴却下判決を支持して上告を棄却したのであるが、右大阪高裁判決は、その認定事実として

『そもそも本件紛争の実質は、前記のとおり単に控訴人ひとりの規律違反を理由とする懲戒処分の適否をめぐる紛議のみにとどまるものではなく、日蓮正宗最大の檀信徒団体である創価学会に対し日蓮正宗としていかに対処すべきかとの宗教団体運営上の基本問題をめぐり現に宗派を二分して展開されている正信覚醒運動とこれに批判的な日顕及び宗務院によって代表される創価学会に対して協調和合していこうとする立場をとる者との間の宗教上の紛争のあらわれのひとつとみるのが相当であり、そこでは、日蓮正宗の宗派に属する全僧侶の約三分の一に達する控訴人ら正信覚醒運動の活動家僧侶二〇一名が宗務院の中止命令に違背して第五回全国檀徒大会に関与した故をもって日顕により懲戒処分に処せられたことに端を発し、控訴人らは正信覚醒運動こそが日蓮正宗の正統の立場であり日顕や宗務院に賛同する者はその教義に反する異端の徒であると非難して右懲戒処分の効力を否定するとともに遂には日顕の法主たる地位の正統性を争うに至ったものと認められるものである』

旨認定し、

『結局本件訴訟は、その実質において宗教上の争いにほかならないといわざるをえず法令の適用による終局的な解決の不可能なものであって、裁判所法三条にいう法律上の争訟に当たらないというべきであり、いずれもこれを却下すべきものと解するのが相当である』

と判示した。(大阪高裁昭和五九年(ネ)第一九三一号昭和六一年五月六日判決判例時報一二〇七号六一頁以下)

蓮華寺事件最高裁判決は、右大阪高裁の認定した事実について「原審の右認定は原判決挙示の証拠関係に照らして首肯することができる」旨判示した上、右大阪高裁と全く同様の表現をもって

『本件訴訟は、その実質において法令の適用により終局的に解決することができないものといわざるを得ず、裁判所法三条にいう「法律上の争訟」に該当しないというべきである』

旨判示し、原判決を維持して上告を棄却しているのである。

右のとおり、蓮華寺事件最高裁判決は、大阪高裁の確定した認定事実を前提としてこれが「法律上の争訟」に該らない旨を宣明したのであって、この点にこそ判例としての意義があるというべきものである。

そして、右認定事実を本件原審の認定事実と対比すると、この二つの事件が「日蓮正宗の内部において創価学会を巡って教義・信仰ないし宗教活動に関する深刻な対立が生じ、その紛争の過程においてされた」(蓮華寺事件最高裁判決)僧侶の言動に対する懲戒処分であるとの前提において全く一致することが明らかであり、蓮華寺事件最高裁判決の論理に従う限り、これが「法律上の争訟」に該当しないこととならざるを得ないのである。

なお、東京高等裁判所昭和五八年(ネ)第一六八六号昭和六〇年二月二八日判決(判例時報一一五一号六八頁以下)(以下妙真寺事件東京高裁仮処分判決という)は、蓮華寺事件大阪高裁・最高裁判決と同様の論理で申請却下の判決をしたものであり、一連の日蓮正宗関係事件についての初めての上級審判決として注目されたのであるが、特筆すべきことは、右妙真寺事件の被処分者である控訴人山口法興に対する処分事由は、本件上告人佐々木秀明に対する処分事由と全く同一であることである。

従って、その背景事実についての主張・立証も両者はほとんど共通である。(註一)

そして、右妙真寺事件東京高裁仮処分判決は、その認定事実として

『本件における各被保全権利の存否は、一に本件罷免処分の効力の如何にかかるものであるところ、控訴人は、本件罷免処分の無効事由として、本件中止命令の実体的理由及び手続的瑕疵による無効、本件罷免処分の実体的理由及び手続的瑕疵による無効、本件処分無効裁決による本件罷免処分の失効並びに管長阿部日顕の処分権限の欠如を主張するけれども、これらの法律的主張の内実ないし本旨は、要するに、本件紛議の発端となった第五回全国檀徒大会の開催もその一環であるところの正信覚醒運動こそが、立宗以来七〇〇年にわたって権力による弾圧にも屈せず、「謗法厳誡」を宗是として教義の純粋性を保持してきた日蓮正宗の正統の立場であって、創価学会の教義逸脱を看過したまま僧侶和合協調をいう管長阿部日顕や宗務院の立場は創価学会の宗旨を放棄するものにほかならないとし、「時の貫主(法主)たりといえども仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事」との二祖日興上人の遺誡(日興遺誡置文)中の一文を根拠として、法主にも間違いが起こりうるから、そのときには、人(法主)によらず法(教義)に従って是非正邪を判断し、永劫に日蓮正宗の精神を伝承するのが日蓮正宗の宗派に属する僧侶の採るべき途であるとし、遂には法主阿部日顕の正統性をも否定して、控訴人の所為がなんら規律違反に問擬されるべきものではないことをいうものである。他方、被控訴人は、控訴人の主張する本件罷免処分の無効事由をことごとく争い、法主の権威の絶対性を背景に、僧俗和合協調路線こそが組織的決定を経た日蓮正宗の確立した方針であるとして、これに従うことなく第五回全国檀徒大会を主催した控訴人こそが異端謗法の徒であると主張するものである。』

(中略)

『したがって、最大の檀徒団体である創価学会に対して日蓮正宗としてどのような方針をとるべきかは、その運営の基本にかかわる根本問題であり、日蓮正宗の存立にも重大な影響を及ぼすものであること、そして、この点についての控訴人の主張に代表される立場と被控訴人らの主張に代表される立場とは、単に本件訴訟における攻撃防御方法であるというにとどまらないのはもとより、控訴人と被控訴人らは又一末寺の妙真寺の次元の問題を超えた日蓮正宗の宗派の勢力を全く二分しての熾烈な宗教上の対立抗争を反映するものであって、本件罷免処分は、管長阿部日顕が日蓮正宗の宗派に属する僧侶約六四〇名中の約二〇〇名の僧侶に対してした懲戒処分のひとつにすぎないし、その後においても、控訴人と立場を同じくする日蓮正宗の僧侶約一八〇名は、昭和五六年一月に宗教法人日蓮正宗及び阿部日顕を被告として阿部日顕が宗教法人日蓮正宗の代表役員等の地位を有しないことの確認を求めて提訴すれば、管長阿部日顕は、右約一八〇名の僧侶に対して擯斥処分をすることをもって対応し、また、全国各地の約一一〇に及ぶ宗教法人日蓮正宗の被包括宗教法人は、昭和五八年に至って、それぞれ対応する末寺の住職にたいして罷免処分がなされたとして境内建物の明渡しを求める訴えを提起し、右住職らも、各宗教法人等を被告として代表役員等の地位を有することの確認を求める訴えを提起して、いずれもそれぞれ現に係争中であることの各事実を認めることができる。』

とした上で、

『これらの事実に鑑みれば、控訴人と被控訴人らとの間の本件紛争の実質は、宗内秩序が不動のものとして確立している宗教団体内部における一僧徒の規律違反を理由とする懲戒処分の適否をめぐる紛議でもなければ、被包括宗教法人のひとつにすぎない被控訴人妙真寺の代表役員及び責任役員の地位又は境内建物たる本件建物の明渡請求権の存否をめぐる争いに尽きるものでもなく、僧俗和合協調路線と正信覚醒運動路線という日蓮正宗の宗派を挙げての現に流動中の宗教上の路線論争の一顕現ともいうべきものであって、そこでは正しく右のいずれの路線を採ることが日蓮正宗の教義及び運営の基本問題、ひいては法主の選任に関する宗規の規定の解釈問題に名を藉りて法主阿部日顕の正統性を問おうとするものにほかならない。

三 以上のとおり、本件各仮処分申請は、宗教法人たる被控訴人妙真寺の代表役員及び責任役員たる地位又は本件建物の明渡請求権を被保全権利とするものであって、一応当事者間の具体的な権利義務ないし法律関係の存否に関する紛争という形式をとっているけれども、右各被保全権利の発生、変更、消滅等に関する前提事実は、専ら宗教団体たる日蓮正宗の内部規律に関する決定又は処分の効力の有無にかかるものであり、しかも、右決定又は処分の効力を判断するためには、最大の檀信徒団体である創価学会に対して如何に対処するべきかという日蓮正宗の教義上又はこれと一体不可分の関係をなす宗教団体運営上の基本的問題及び宗内の最強権威者であって日蓮聖人が悟った仏法のすべてを承継しているものとして信仰の対象とされるべき法主の選任に関する宗規の規定の解釈問題について判断することを避けることができないところ、これらの問題こそ正しく宗教団体内部の自律的措置に委ねられるべき事項であって、当該決定又は処分がなされたという既成事実をもって宗教団体の自律的結果であるとしこれを有効視することによって結果的にいずれかに左袒することをも含めて、国家機関としての裁判所がこれに介入することを厳に戒められるべきところであり、そのうえ、そもそも本件紛争自体が、その実質においては右のような宗教団体内部の基本問題をめぐっての正統と異端との間の宗教上の争いにほかならないと認められるのであるから、全体として司法的解決には適しないものであって、結局、裁判所法三条一項の規定にいう法律上の争訟には当たらないものというべきであり、控訴人及び被控訴人らの本件各仮処分申請は、いずれも不適法として却下すべきものと解するのが相当である。』

と判示した。

右判示に明らかなとおり、妙真寺事件東京高裁仮処分判決は蓮華寺事件最高裁判決(蓮華寺事件大阪高裁判決)と同様の認定事実のもとで裁判所の審判権を否定したものである。(註二)

本件の処分対象事実は、妙真寺事件と全く同一であり、また、本件、蓮華寺事件、妙真寺事件その他日蓮正宗関係事件が同一の背景を有していることおよび本件紛争の実体についての事実認定に関しては、本件原判決と蓮華寺判決の間に径庭はない。

以上のとおり、原判決が蓮華寺事件最高裁判決と同様の事実認定に立ちながら、あえて実体判断を行ったのは、明らかに判例に反し、裁判所法三条の解釈を誤ったものであり、右誤りが判決に影響を及ぼすことは明らかであって、原判決は破棄されるべきものである。

註 一 本件と妙真寺事件被処分者の訴訟上の主張の唯一の相異は、本件上告人が訴訟上の認否としては阿部日顕の処分権者たる地位を争う旨の陳述をしなかったことのみである。その理由は、上告人の本件被上告人寺住職任命がたまたま阿部管長の名で行われており、上告人が代表役員地位確認を求める請求との関係で訴訟上の主張としてはあえて行わなかったということであり、上告人自身は阿部の管長たる地位を否認していることについては、本件記録中の上告人の陳述から明らかである。

註 二 なお、妙真寺東京高裁仮処分判決は、双方、上告することなく確定している。

妙真寺仮処分申請事件の本案訴訟については、一審東京地方裁判所の明渡請求認容、代表役員地位確認請求棄却の判決に対し、被処分者山口法興が控訴し、(東京高等裁判所平成二年(ネ)第一三六九号)東京高等裁判所第一二民事部は平成二年一月二四日原判決を取消し、双方の請求を却下する旨の判決を言渡した。

右双方却下判決に対しては、双方が上告し、現に御庁に係属している。(最高裁判所平成二年(ネオ)第三五号同年(ネオ)第四七号)

第三点 法定代理権の欠缺

原判決は被上告人の上告に対する建物明渡請求事件に関する被上告人代表の資格欠缺を看過した判決であり、右事件は右理由により本案前却下されるべきである。

すなわち、被上告人は宗教法人であり、被上告人法人を代表する代表役員により訴訟行為がなされなければならない(民事訴訟法第五八条、同第四九条)。

右の要件は訴訟要件であり、その存否は裁判所の職権調査事項であり(大審院判決明治三三年五月二五日民録六巻八四頁)、弁論主義が適用されることはない。

したがって、訴訟要件の存否は当事者の主張や自白などによって拘束される性質のものではない。

また、法人登記上代表役員として登記されていても、実質的に代表役員でない者が提起した訴えが訴訟要件を欠いて違法となることはいうまでもない(注釈民事訴訟法第一巻三一三頁、最高裁判決昭和四一年九月三〇日判例時報四六二号三〇頁、最高裁判決昭和四三年一一月一日 民集二二巻一二号二四〇二頁、仙台高裁判決昭和五九年一月二〇日判例時報一一一二号八四頁)。

上告人の本案前抗弁の主張の要旨はつぎのとおりである。

一 被上告人の代表役員選任規定

被上告人法人の規則によると、被上告人法人の代表役員は主管をもって充てる旨が規定され(甲第二号証、第八条)、主管は被上告人法人を包括する宗教法人たる日蓮正宗の管長が任命することとなっている(宗規第一七二条)。

ところで、包括宗教法人たる日蓮正宗の宗規では、管長は法主をもって充てる旨規定され(同第一三条二項)、さらに法主は宗規第一四条に基づいて次期法主に選定されることによって法主に就任し(同第一四条二項)、当代法主が巳む得ない事由があって次期法主を選定できないときは、総監・重役・能化の協議によって次期法主を選定する定めとなっている(同第一四条三項)。

また、次期法主に選定されるべき被選定資格者は権僧正以上の者でなければならず、緊急巳むを得ない場合は、大僧都の中から選定できることとなっている(同第一四条二項、三項)。

二 訴外阿部日顕の被上告人教会主管任命権ならびに訴外渡辺慈済の被控訴人法人代表権の不存在

ところが、訴外阿部日顕は前法主であった訴外細井日達から次期法主に選定された事実はないし、また次期法主の被選定資格も有していなかった。

しかして、日蓮正宗の前法主・管長細井日達が阿部を次期法主に選定する意思表示をしたことがないことは日蓮正宗および被上告人のいずれもがそれぞれ自認するところである。

なお、被上告人による訴外阿部日顕の法主・管長の地位取得原因についての主張の要旨は「訴外阿部は、昭和五四年七月二二日、前法主管長細井日達上人の死亡後、日達上人の生前である昭和五三年四月一五日に日達上人から内々に「血脈相承」を授けられ宗祖の血脈(宗祖日蓮の仏法の極理)を唯一承継した旨を重役会議で述べ、阿部本人と椎名重役の二名で構成される責任役員会は阿部が管長・代表役員であることを確認し、その後阿部は法主、管長として振舞っているから阿部は法主・管長である」というものである。

そして、細井日達が阿部を次期法主に選定したとの事実を争うべく訴を提起した正信会の僧侶らに対し、阿部は右事実の立証を拒んだ上、阿部にあったとされる「血脈相承」を否定するということは、日蓮正宗の正統教義のもとでは「宗祖の血脈」の断絶を唱える重大な異説であるとし、阿部の管長・代表役員地位不存在確認訴訟(管長事件)を提起した教師資格ある僧侶二〇三名(この数は当時の日蓮正宗の僧侶の約三分の一にあたる)全員を擯斥に処している事実も当事者間に争いがない(原審上告人第五準備書面一三頁以下、同被上告人第五準備書面二五頁以下。)

しかして、訴外阿部日顕は日蓮正宗管長を詐称して、昭和五五年九月二五日、訴外渡辺慈済を被上告人教会主管に任命した。

しかしながら、右訴外渡辺を被上告人代表役員に任命した阿部に管長たる地位の取得原因が存在しないことは、右被上告人の主張自体ならびに右事実から明らかである。

したがって、訴外阿部が右訴外渡辺を被上告人教会主管に任命した行為は任命権を有しない者による任命行為であり、任命自体無効であることが明らかであるから、右訴外渡辺に被上告人教会主管としての地位はなく、したがって被上告人法人規則に基づく被上告人法人の代表役員ではない。

三 本件建物明渡請求事件と代表役員地位確認請求事件における訴訟要件の関係

前述のとおり、被上告人の登記簿上の代表役員である訴外渡辺慈済は建物明渡請求事件において被上告人法人を代表する権限はなく、したがって被上告人の上告人に対する請求については本案前却下されるべきである。

そうすると、上告人を一審原告とする代表役員地位確認事件についても同じく訴訟要件が欠缺しているのではないかとの疑問が生ずる。

つまり、代表役員地位確認請求事件の原告が当該法人代表役員の地位にあることが確認されれば、被告である当該法人において代表役員登記がなされている者は当該法人の代表役員でないことになり、したがって右代表役員確認事件に関する被告法人の訴訟代理権限がなかったことになって本案前却下されるのではないかという問題である(船越隆司著、「宗教判例百選」、別冊ジュリスト四六頁)。

しかしながら、代表役員地位確認事件については訴訟要件は欠缺しない。

すなわち、当該法人の代表役員の地位にあると主張している者は当該法人の代表役員登記がなされている個人、あるいは罷免権者を当事者として訴訟提起することができず、当該法人自体を当事者にしなければ即時確定の利益がなく不適法なものとされている(最高裁判決昭和四四年七月一〇日、民集二三巻八号一四二三頁など。)

右は確定した判例であって、当該法人代表役員の地位を主張する者は当該法人自体を当事者とすることが要求されているのである。

したがって、原告の代表役員としての地位が確認された場合、被告の訴訟要件が欠缺して原告の請求が不適法となるとするのはいかにもおかしいので、登記上記載されている代表役員は当該代表役員の地位の存否が本案の問題として争われている事件についてのみ、訴訟代理権を有すると解されている(注釈民事訴訟法第一巻三一三頁では「法人の代表者となっている者の代表権の存否が本案の問題となっている訴訟において、そのものを代表者とすることはさしつかえない」とされている。判例としては、大審院判決昭和一二年二月二六日判決全集四揖五号三頁、大阪地裁判決昭和二七年一二月五日下級民集三巻一二号一三七頁)。

宗教法人について直接その点について触れた判例はないが、代表役員の地位を主張する者が法人登記上記載のある者を当該法人の代表者として提起した訴訟につき、法人登記上記載のある者に訴訟代理権が当然あるものと取扱って本案前判決ではなく実体判決がなされている。

このようなことから、本件のうち上告人の被上告人に対する代表役員地位確認事件については法人代表権に関する訴訟要件は充足されているのであるが、被上告人の上告人に対する建物明渡請求事件については訴訟要件は第一審以降現在まで欠缺していることになる。

よって、以上の理由からも原判決は破棄されるべきものである。

以上

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